【命】命の重さは、その対象者との距離感で決まるかも
私は基本的に命とは等しくあるものとは思います。
しかしもし命が本当の意味で等しいのであれば…
命をいただくわけでもない利益のための殺人や戦争、または家畜や搾取、マインドコントロールなどの身勝手なことはこの世界において起こらないと思っております。
これらの醜い行いはある意味で、その命へと“重さ(価値)”を比べていると私には思えてならないのです。
今回はそんな命の重さを、その対象者との距離感で決まるかもしれないと思い今回は執筆させて頂きます。
あくまで多くの考え方がある中で2020/01/13時点での私なりの考えとなりますので予めご了承お願いします。
- 【命】他国や他人の痛みに無関心に無関心な人々
- 【命】人との距離感を上手く保てていない人びと
- 【命】見えないものが、ないものだと思う人たち
- 【命】経営陣は労働は”必然“と思ってきている…
- 【命】皆変わらないが、己だけは変わっていける
【命】他国や他人の痛みに無関心に無関心な人々
私はこれは毎日日本を見ていて思います。
特に東京ではそれが非常に良く感じられます。
もちろん、東京では人口密度も高いですから、変な人や犯罪者や危ない人たちが割合で多くなるのですから、それを警戒して無関心を装うのはわかります。
しかし、それにしたって例えばベビーカーや車椅子の人たちをのけもの扱いしたり、高齢者を平気でたたせたりなどの毎日の電車の中の様子は異様な光景です。
もちろん、不景気だから皆余裕がないからだ。
と定義してもいいのですが、余裕が無いからといって、それとこれとは別問題だと私は思えてなりません。
私がこれについて思うのはネットによる“透明性”と“匿名性”による弊害のような気がしてなりません。
ネットができてからは、なんでもかんでもネットに投稿できるわけですから情報が大きく民主化されました。
それと同時に、好き勝手に匿名なのであることないこと皆が好き勝手叩けるような世の中へとなりました。
むかしはフライデーとか週刊文集など誌面を飾る程度でしたが、今はTwitterなどで叩かれたりするでしょう。
それはネットによる“透明性”と“匿名性”による弊害であると私は思っており、それが現代の日本においてはまるで、心の中までズケズケと土足で踏みにじられる世界。
それと日本語は表現が多様に出来る言語なので、より陰湿な島国特有な雰囲気が加速したのでしょう。
だから目立たないように生きるようになり、自己肯定感もネットでの比較により失われ、メディアにより白痴化が進み、思考停止人間の山が出来上がったと思う。
これらが、他国や他人の痛みに無関心に無関心な人々の出来上がったネットと日本語の問題だと思えます。
【命】人との距離感を上手く保てていない人びと
なので、“透明性”と“匿名性”による弊害としては、ズケズケと土足で相手の心に入れてしまうが故の、人との適切な距離感が掴めない人が増えたのだと思います。
私もネットにはWindows95のOSの頃から、今は知らない人も居るかもしれないフロッピーディスクの頃からネットを見てきておりますが、むかしは知的でした。
まあまだ、パソコンが民間機としてはまだ程遠い時代ですから、法人の分野の人が多かったので当たり前といえば当たり前だったのですが知性を感じられましたね。
でも今ももちろんそういった方達も大勢いらっしゃいますが、2ch全盛期の頃よりも更に低年齢化と白痴化が深刻な状態へと進んでいる気がしてなりません。
おそらく、私が思うにネット社会事前は、娯楽の数が少なかったので必然的に“活字”に触れる機会が多かったように思いますね。
子供だと、コロコロコミックやジャンプ、ライトノベルやちょっとした恋愛小説や推理小説などを普通に学生の頃から近くにあり皆が読書をしていたと思います。
“活字”に触れることは私は非常に大切だと思っていて、相手の気持ちを知るにはとても良い環境だと思います。
しかし現代はどうでしょうか?見渡す限りYouTubeを見ていたりゲームをしていたりSNSをしていたり…
まったく“活字”に触れなくても生活が出来る様になり、また自分の好きな分野だけに触れる世界となりました。
もちろん、それはそれで良いのですが明かに頭の悪いひとが増えて、画面に意識がさかれている人が増えた。
満員電車でも“スマホ世界”へ誘わられており、周りが見えない“成人“がごまんといるのは知っているでしょう。
これが私が思うに人との距離感がネットでは近く、リアルの現実世界ではかなり遠くに感じられるひとつの原因なのではないかと世の中を見ていて思ったりします。
【命】見えないものが、ないものだと思う人たち
なので、”活字“にも触れないわけですし、ニュースが楽しいか楽しくないかで言えば、教養がある程度備わっていれば楽しめるのですがないと楽しめません。
正直私も小学生の頃はニュースや新聞は見るに耐えませんでしたね、女子アナがえろいくらいなもんでしたw
でも進学を進めるにつれ、歴史や異文化、色々な価値観や考え方に触れる中で楽しめるようになりました。
それは”活字“から多く学びましたし、”活字“以外にも”対人との会話“によって養われたと思います。
これも私が思うのですが、私が子供時代はネットがまだ弱い時代でしたから対人とのコミュニケーションはもっと普通に出来る人たちが多かったと思います。
適切に自分の考えを伝えられるのが普通でしたし、普通に相手の言っていることも理解できる人が多かった。
これはおそらく”活字“や娯楽が少ないがゆえの”オフラインコミュニケーション“が活発だったからでしょう。
でも、今はまったくコミュニケーションがうまく取れない人がめちゃくちゃ多いように思えますし、特に子供世代では肯定感が低い人が増えたように思えますし…
大人の人たちも”思いやり“に欠けるような大人子どもの割合が以前にも増して増えているような気がします。
もちろん私自身が加齢とともに、視座も変わってきているともいえるのですが、それにしても子どもが多い。
小学生でもわかる、”人間助け合って生きよう“てきなことの文脈もかなり薄くなっているような気がします。
まあ、これがいいのか悪いのかは置いておくとして、今の日本の政治も国家主導、個人主義寄りなので、それを良しとしている側面もあるのかもしれませんね。
きっと隣の家の隣人が死んでも核家族の自身と家族以外の状態はどーでも良いと思える国柄かもしれませんね。
どちらにせよ、”他人の痛み“に無関心で、平気で人の気持ちを踏みにじるひとが、しかも”無意識“で平然と気持ちを踏みにじるひとがネット以降増えたか、あるいは表面化したと私は今の日本については思います。
要は、自分のスマホの中のフォロワーは見えているけど、隣の家の隣人のことは見えていないのが今日です。
まあ、まだネットが、特にスマホが普及してそこまで時間が経っていない数十年の期間しか経ってませんので、今後これらの環境が理性的になる事を望む限りです。
私はぜひとも”まずは隣人へ挨拶“からできる大人になっていって欲しいと思う限りでございますね。
【命】経営陣は労働は”必然“と思ってきている…
これは、私もわからなくもないのですが…
でも、低賃金で命を長時間拘束して、人格までも踏みにじり、酷使するのは如何なものかと私は思います。
もちろん、それを良しとしてきたのが、戦後の日本だったりするのでこれまではこれまでとしましても…
これからは、安いものを多くの人に届けるのではなく。
良いものを本当に必要としている人たちへと”体験“を届けるようにして価値を一緒に高めていくべきでしょう。
これまではたくさんの従業員が酷使されて、低賃金で安いモノを生み出して薄利多売でデフレな世界でした。
しかし見てわかると思いますが、自殺している人や、心を殺している人、死んだ魚の大群が電車を埋め尽くす…
私がフリーランスになってよかったのは、結構な部分あるの電車に乗る事が少なくなったことでしたね。
あの電車に365日の大部分を割いていたことがとてつもなく異質であり、気持ち悪い環境に私は思えましたね。
もちろん人は慣れていく生き物ですから、そういった通勤も含めて過酷な労働環境になれていくことでしょう。
でも、変わるべきはまずは経営陣だと私は思っていて、今後は主にアメリカのGAFAなどにIT分野は持っていかれますし、それ以外の分野でも持っていかれます。
日本のアイデンティティは、失われるでしょう。
でも、そこがスタートラインだと思っていて、私が勝手に思っているアイデンティティは“ガラパゴス化”だと私は日本をずっと見てきて思っております。
ガラケーがとてつもなく進化したように、今後世の中では考えられない様な独自性のガラパゴス化をできる。
それがにほんの凄さだと思いますので、一回すべて飲み込まれて、それらを日本流にガラパゴス化させるのが、きっとすべての日本の復活への歩みだと思えます。
ですので、たぶん大きくなった大企業の組織はいま“スリム化”を迅速にすすめていますので、しばらくの間はとても過酷な日本が数年から数十年続きそうです。
しかし、その過酷な時こそが、日本が独自性を生む、表現悪いですが神風特別攻撃隊の様なものを爆発的なパワーを発揮できるのが日本の個性な気がしています。
切腹や天誅する文化のある日本ですから、きっと新たなる風を出せると私は信じており、私もガラパゴスなライティングを常日頃から模索していたりもします。
【命】皆変わらないが、己だけは変わっていける
それでは結論へと向かいますが、世の中は変わらず命を粗末に痛みをわからず、距離感も掴めず、見えないものをないものとし、社員をこき使い、低迷していますが…
そんな現状は変わることはなくただ流れていきます。
でも、そこでできることは自分の可能性を信じて己の未来を作り出すことはできると私は思います。
例えば、私が「えいっと」会社を辞めて、ライターになりまあ死なない程度には食える様になったように…
そこへと変わって身を投じたり、周りが命を軽視していたとして、自分は命を重じていきていくなどはできる。
痛みに鈍感な世の中だからこそ、痛みに敏感に感度高く人の痛みに寄り添って生きれるのは価値ですし…
私も社畜時代は否定の限りでしたが、今ではクライアント様にも恵まれて、楽しくお仕事ができています。
たぶん、クライアント様にも必要とされていると思いますし、私もクライアントさまを大切に思っています。
そして、この記事やサイトをご覧の読者様もとても大切な財産であり、1PVが私の人生での財産なわけです。
世の中は変わりませんし、皆は変わりません、会社の同僚も変わりません、社長も変わりません、国もです。
しかし、あなた自身の今日以降の歩み方は無数の可能性が存在しており、そのすべてが輝けるでしょう。
べつに仕事だけじゃないし、プライベートだけでもない、日本だけでも地球だけでもない、ぜひ自分なりの…
自分の【命】との真剣に向き合うことからまずは初めていかれると良いのではないかと私は思います。
ではまた…